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九 - 13

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     「ともかくもあした行くつもりかい」
     
     
     「行くとも、九時までに来いと云うから、八時から出て行く」
     
     
     「学校はどうする」
     
     
     「休むさ。学校なんか」と擲(たた)きつけるように云ったのは壮(さかん)なものだった。
     
     
     「えらい勢(いきおい)だね。休んでもいいのかい」
     
     
     「いいとも僕の学校は月給だから、差し引かれる気遣(きづかい)はない、大丈夫だ」と真直に白状してしまった。ずるい事もずるいが、単純なことも単純なものだ。
     
     
     「君、行くのはいいが路を知ってるかい」
     
     
     「知るものか。車に乗って行けば訳はないだろう」とぷんぷんしている。
     
     
     「静岡の伯父に譲らざる東京通なるには恐れ入る」
     
     
     「いくらでも恐れ入るがいい」
     
     
     「ハハハ日本堤分署と云うのはね、君ただの所じゃないよ。吉原(よしわら)だよ」
     
     
     「何だ?」
     
     
     「吉原だよ」
     
     
     「あの遊廓のある吉原か?」
     
     
     「そうさ、吉原と云やあ、東京に一つしかないやね。どうだ、行って見る気かい」と迷亭君またからかいかける。
     
     
     主人は吉原と聞いて、そいつはと少々逡巡(しゅんじゅん)の体(てい)であったが、たちまち思い返して「吉原だろうが、遊廓だろうが、いったん行くと云った以上はきっと行く」と入らざるところに力味(りきん)で見せた。愚人は得てこんなところに意地を張るものだ。
     
     
     迷亭君は「まあ面白かろう、見て来たまえ」と云ったのみである。一波瀾(ひとはらん)を生じた刑事事件はこれで一先(ひとま)ず落着(らくちゃく)を告げた。迷亭はそれから相変らず駄弁を弄(ろう)して日暮れ方、あまり遅くなると伯父に怒(おこ)られると云って帰って行った。
     
     
     迷亭が帰ってから、そこそこに晩飯をすまして、また書斎へ引き揚げた主人は再び拱手(きょうしゅ)して下(しも)のように考え始めた。
     
     
     「自分が感服して、大(おおい)に見習おうとした八木独仙君も迷亭の話しによって見ると、別段見習うにも及ばない人間のようである。のみならず彼の唱道するところの説は何だか非常識で、迷亭の云う通り多少瘋癲的(ふうてんてき)系統に属してもおりそうだ。いわんや彼は歴乎(れっき)とした二人の気狂(きちがい)の子分を有している。はなはだ危険である。滅多(めった)に近寄ると同系統内に引(ひ)き摺(ず)り込まれそうである。自分が文章の上において驚嘆の余(よ)、これこそ大見識を有している偉人に相違ないと思い込んだ天道公平事(てんどうこうへいこと)実名(じつみょう)立町老梅(たちまちろうばい)は純然たる狂人であって、現に巣鴨の病院に起居している。迷亭の記述が棒大のざれ言にもせよ、彼が瘋癲院(ふうてんいん)中に盛名を擅(ほしい)ままにして天道の主宰をもって自(みずか)ら任ずるは恐らく事実であろう。こう云う自分もことによると少々ござっているかも知れない。同気相求め、同類相集まると云うから、気狂の説に感服する以上は――少なくともその文章言辞に同情を表する以上は――自分もまた気狂に縁の近い者であるだろう。よし同型中に鋳化(ちゅうか)せられんでも軒を比(なら)べて狂人と隣り合せに居(きょ)を卜(ぼく)するとすれば、境の壁を一重打ち抜いていつの間(ま)にか同室内に膝を突き合せて談笑する事がないとも限らん。こいつは大変だ。なるほど考えて見るとこのほどじゅうから自分の脳の作用は我ながら驚くくらい奇上(きじょう)に妙(みょう)を点じ変傍(へんぼう)に珍(ちん)を添えている。脳漿一勺(のうしょういっせき)の化学的変化はとにかく意志の動いて行為となるところ、発して言辞と化する辺(あたり)には不思議にも中庸を失した点が多い。舌上(ぜつじょう)に竜泉(りゅうせん)なく、腋下(えきか)に清風(せいふう)を生(しょう)ぜざるも、歯根(しこん)に狂臭(きょうしゅう)あり、筋頭(きんとう)に瘋味(ふうみ)あるをいかんせん。いよいよ大変だ。ことによるともうすでに立派な患者になっているのではないかしらん。まだ幸(さいわい)に人を傷(きずつ)けたり、世間の邪魔になる事をし出かさんからやはり町内を追払われずに、東京市民として存在しているのではなかろうか。こいつは消極の積極のと云う段じゃない。まず脈搏(みゃくはく)からして検査しなくてはならん。しかし脈には変りはないようだ。頭は熱いかしらん。これも別に逆上の気味でもない。しかしどうも心配だ。」
     
     
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